昔の話/数学専門進学塾について(2013.02.14)



 今から40年近く前、自分がまだ小学生の5年生頃のことであった。
 私の親は、軽度の両手の障害を持つ私が将来生きていくためには勉強と学歴が何よりも重要だと思ったのであろう、
 しかも算数のからっきし弱い私を、これでは到底イケナイと気がつき、算数を徹底的に鍛えようという目的で、
 京都市の中でも小学生対象の算数(数学)専門の学習塾を探してきて、そこに私を入れた。

 それは「N塾」といった。

 その塾は、京都市内でもきわめて算数の得意な子供(つまり算数優等生たち)がたくさん集まってくる
算数特化学習塾ということで有名であった。
 場所は、右京区の国鉄嵯峨駅の近く(南)にあった。古くて大きな和風の家を改造して何十人もの子供たちが集められる教室にしていた。

 当時私が住んでいたのは山科であったので、小学校の授業が終わったら、父親にクルマで山科駅まで送ってもらい、
 山科駅から京都駅へ、そして山陰本線の各駅停車に乗り換えて、嵐山嵯峨のその「N塾」に通った。
 この山陰線の列車は木製の客車を確かディーゼル機関車が引っ張るというもので、車内は薄暗くて木のニオイ、古いニオイがした。
 京都を出て嵯峨駅までの間に、いつも母親が作ってくれた夕飯用のお弁当を食べた。

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昼間の嵐山

 京都嵯峨のその「N塾」は、さまざまな種類の問題を毎日毎日大量に次々とテストし、生徒に解かせ説明してゆく、いわば
スパルタ的な算数英才教育の場であった。
 それに対して私は、恐ろしく算数が出来なかった。しかも学期の途中から入っていったので、始めからスタートが大幅に遅れていた。

 そして事件は私がその塾に入った初日に起こった。

 年配の先生が、数十人いる生徒の中から、途中新入りの私を指名して聞いた。
 「はい、ではナカガワ君、初歩的な質問だけど、大工が1週間かけてやる仕事の1日当たりの仕事量はどれだけかね?」

  
答えはもちろん「7分の1」である。

 しかし私は頭が真っ白になった。そういうふうに機械的に分数に置き換えるという思考パターンを経験したことがなかった。

 「えーと、大工さんが7日間かけて仕事をするのか。それは大変な仕事だ。いろんな内容の仕事がその7日間にあるに違いないな、
 それを1日あたりというと、いろんな仕事をそれぞれ少しずつやらなければならないな、
 そうするとそのいろんな種類の仕事を少しずつ7回に分けていくのはどうやって分ければ良いのだろうか……?」などど、言葉で意味を考えてしまうのだ。

 そうやって、えーと、えーと、えーと………、と考えているうちに訳が分からなくなってしまい、答えられないでいると、
 教室にいる他の「算数秀才生徒たち」の間に、さざなみのように、あるいはどよめきのように、驚きと失笑が広がっていき、最後には私に向けて教室中で大爆笑が起こった。
 「なんだあいつ! 7分の1も分からないのか? あいつ、正真正銘の馬鹿か? 頭ヘンなんじゃないのか!
 なんであんなやつがこの「N塾」にいるんだ?! はっはっはっはっはっはっは~~~!!!」

 先生も驚きながら、さらに問う。
 「あー、それじゃあ、大工が3日間でやる仕事の1日分の仕事は? これはいくらなんでも分かるよね?」

 
答えはもちろん「3分の1」である。

 しかし私はそれにも答えられない。そういうふうに考えるというパターンがこれまで頭の中に存在しない(経験したことがない)のであるから、どだい無理なのだ。
 数学というのはあるパターンがあって、それにいったん乗ってしまえば、いちいちその意味を考えなくとも、答えを導き出せる。
 いやむしろ、
その「意味」を深く考えてはいけない。

 教室にいる京都じゅうから集まった算数の秀才生徒たちは、私のことを、まるで奇異なものをまなざすかのようにながめ、おもしろがり、爆笑をしている。
 私は笑いの渦の中で当惑し、追い詰められ、下を向き、顔を真っ赤にして、ただひたすら無言で爆笑の嵐が過ぎ去るのを待たなければならなかった。
 これはまるで
現代の「イジメ」そのものではないか。私の目には涙があふれた。

 さすがに教師もこれはマズイと思ったのか、塾の授業が終わった後、私だけ残して補習授業をしてくれた。
 「ナカガワ君、これをやってごらん、あれ? できないの? ああ、『ツルカメ算』が分かっていないな。
 じゃ、これはどうかな、えっ全然分からない? そうか『列車算』も全然分かってないのか。ではこれは? えっ? ダメだって? 『時計算』も知らないのか………」

 こんな調子が延々と続いた。

 塾が終わった後は、夜の薄ら寂しい山陰線の暗いガラガラの列車に乗って京都に戻る。
 毎回、夕方に嵯峨に来る時の列車は心が重かったが、この帰りの夜の列車は塾でのストレスが終わって、実に楽しかった。
 京都で乗り換えて山科駅に着くと、父親がクルマで山科の駅まで迎えに来てくれていた。

 さて、そういうわけで、私はこの算数秀才集団の学習塾の中では、飛び抜けた劣等生であり続けた。
 算数(数学)のテストをやると、100点満点で10点とか20点。ひどい時は0点だってあった。
 算数エリート養成の「N塾」にとって、私は疫病神以外の何ものでもなかったと思う。
 早くいなくなってくれれば良いのに、と他の生徒からも塾の教師からも思われていたに違いない。

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 そんなとき、ちょっとした「事件」が起こった。
 京都市の多くの小学生が受けた中学受験統一模擬試験とかなんとかいう統一試験が行われ、当然「N塾」の生徒たちも全員これを受けた。
 そしてなんと私は、この全京都小学生・中学受験統一模擬試験において、堂々の「9位」に入ってしまったのだ。
 中学受験を目指す京都市全体の小学生受験生上位ベスト10入りを果たしたのである。
 あの
数学専門難関「N塾」の最底辺の劣等生がだ。

 理由は簡単。私は
算数以外の科目の得点が良かったのだ。
 その模試での私の算数の試験の点数は相変わらずパッとしないものであった。N塾の他の生徒たちは、こと算数に関してはやはり上位をすべて独占していた。
 そのかわり、算数以外の科目に関しては私は非常に高得点を獲得していた。国語、社会などはほぼ満点状態で、理科もまあまあであった。
 結果として総合成績では並み居る「N塾」の算数の秀才たちを押さえて、劣等生の私が全京都「ベスト10」入りを果たしたのである。

 その「N塾」の算数秀才生徒たちは、確かに、こと算数については抜群によく出来たのかも知れないが、算数以外の科目は、からっきしダメだったのだ。
 
他の分野は全然ダメだが、計算だけは恐ろしく出来る子供たち。

 その後「N塾」で、私が軽蔑と失笑のうずに巻き込まれることは二度となかった。むしろ驚嘆の目で見られるようになった。
 「なんであいつが?」「あの信じられないほどの算数劣等生のあいつが、なんで全京都でベスト10に入ったのか?」

 ショックを受けたのは、生徒たちばかりではなかった。この「N塾」の先生たちも大きな衝撃を受けたようだった。
 ほどなくして、算数専門塾であったはずの「N塾」でも、なんと国語や社会といった科目を教え始めたのだ。
 漢字の読み方や文章の読み方、日本の歴史から現代の政治の話とか、とにかく算数以外の科目を、算数(数学)の時間を割いてでもやるようになった。
 それまで算数だけを得々と教えていた先生たちが、国語の漢字の読み方や社会の穴埋め問題をやるようになったのだ。
 まもなく私はこの「N塾」をやめた。算数だけではなく、もっといろいろな科目を扱う総合的な学習塾に移った。

 この「N塾」は現在でも存続しているようである。ただし、名前は同じだが中身が同じかどうかは知らない。経営者もとっくの昔に変わってしまったのだろう。
 もはやかつての算数特化難関学習塾ではないのだろう。もう40年も前の話だ。

 しかし私は、京都の「嵐山」とか「嵯峨」という地名を聞くと、今でもこの「N塾」の思い出がよみがえる。
 簡単な問いに答えられずに教室中から笑われた記憶がよみがえる。
 帰りにガラーンとした山陰線の夜の車内に一人ポツンと座っていた記憶がよみがえる。
 観光客でにぎわう昼間の姿とは違う、静まりかえった夜の嵯峨・嵐山の光景がよみがえる。

 それはひどく暗くて寂しい記憶である。

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