南太平洋航海記 第31回東海大学海外研修航海に参加して
文学部文明学科 中川久嗣

※この航海記は、「異文化交流 第2号 特集:日本の近代化と留学」(東海大学外国語教育センター・異文化交流会編、2000年10月発行)に掲載されたものである。中川所属は1999年当時のもの。




 1999年度の東海大学海外研修航海は、2000年2月16日から3月31日までの合計45日間行われました。
 参加学生は120名で、うち14名が、東海大学と協定を結んでいるアジアやヨーロッパの大学からの留学生でした。
 引率の団役員は、高橋守人団長以下11名で、これも東海大学はじめ、九州東海大学や北海道東海大学、そして静岡短大などから参加した教職員で構成されました。

 訪問した寄港地は、静岡県清水港を2月16日に出港したあと、ミクロネシア連邦のポンペイ(2月22日~24日)、ツバルのフナフチ島(2月29日~3月1日)、
 サモアのウポル島アピア(3月2日~4日)、フランス領ポリネシアのタヒチ(3月8日~10日)、同じくボラボラ島(11日~13日)、
 マーシャル諸島共和国のマジュロ(3月22日~23日)、そして清水港に3月31日に帰ってきました。


 清水港出港当日は、雪がちらほらと降ってくる寒い日でした。松前総長はじめ多くの見送りの方々の声援と紙テープの乱舞の中、望星丸はゆっくりと岸壁を離れてゆきました。
 この日、日本海近海は折からの低気圧による悪天候のためかなり荒れていました。岸壁を離れた後、私が望星丸のサロンの窓から前方を見ていると、
 となりにパーサー(事務長)の今野さんがやってきて、清水港の外の波の様子を見ながら、「うわぁー……こりゃあくるなあー」と呟かれました。
 確かに白い波しぶきがたくさん見えましたが、その時私にはいったい何が「くる」のかまだピンときませんでした。
 しかしものの15分も経つと、それが何を意味するのか、いやというほど思い知らされました。清水港の防波堤を出たとたんに、望星丸がものすごく揺れ始めたのです。
 この「ものすごく」というのは決して「結構揺れた」程度のものではありませんでした。この45日間の全航海日程の中で、実はこの第1日目の出港直後からのシケと船の揺れが、
 最悪のものだったのです。



 最大風速20メートル以上、船の最大傾斜は何と37度まで傾きました。
 食堂の食事はぶっ飛ぶ、椅子はすべっていく、荷物は次から次へと落ちてくる。居室の床は足の踏み場もないほど荷物や物が散乱して収拾がつきませんでした。
 そして何よりも深刻だったのが船酔いでした。


 多くの学生や団役員が苦しみました。あっちでもこっちでもゲーゲー吐いているという状況です。
 私は出港直前にトラベルミン(酔い止め薬)を飲んでいましたが、それでも立っていると途端にどうしようもなく気持ち悪くなるので、ずっと居室のベッドに寝ていました。
 トラベルミンの睡眠作用もあって、船の揺れと荷物の落ちる音と他の人の苦しむ音などを、夢うつつの中でぼんやりと意識していました。初日の夕食はとても食べられませんでした。

 しかし一方でうんうん苦しんでいる者がいると思えば、他方で学生や団役員の中にも、船酔いなどまったく何も感じないという者もいました。
 そういう人たちは、平気な顔をして食事をもりもり食べて、楽しそうに船内生活を満喫しています。
 これは異文化というわけではありませんが、同じ人間なのに、こうも違うのはなぜなんだろうと思いました。うらやましい限りです。
 今回の航海は、全体的に見て、船はずっと揺れていたという印象があります。
 帰りに清水港に着く前にまたかなり揺れましたが、さすがに初日ほどのひどいシケはあまりありませんでした。
 しかしそこまではひどくないものの、荒木船長によれば、例年よりも大きな揺れがずっと続いたそうです。


 いわゆる凪(なぎ)はサモアを出た後に少しあった程度でした。船長は「今年の航海の参加者には、ホントに申し訳ないですねえ」と繰り返しおっしゃっておられましたが、
 何も船長が悪いわけでもなく、また海に文句を言っても始まらず、ただただ自然の力に恐れ入るばかりでありました。

 現代の科学技術の結晶である望星丸ですら、こんなに大変な航海なのに、例えば今から数百年前の大航海時代の帆船による航海の苦労は、
 想像を絶するものがあったのだろうな、とよく考えました。大きさもそんなに大きくない木造船で風の力だけを頼りに、
 船体をバラバラにしようとするような逆巻く波の連続を乗り越えながら、当時の人々は世界の海を航海したのです。
 これは本を読んで想像するだけではなく、現実に太平洋のシケを経験した者には、大いなる実感として迫り来るものがありました。
 私はミシミシグラグラ揺れる望星丸の中でコロンブスの『航海記』やタイユミットの『太平洋探検史』を読みながら、あるいは延々と続く太平洋の海の彼方を見つめながら、
 コロンブス、マゼラン、クック、ブーガンヴィルといった冒険者たちの航海のすごさに思いを馳せたのでした。


 ところでここでぜひ特筆しておきたいと思うことがあります。それは団役員として乗り組まれた女性看護師さんの働きです。
 今回の団役員には、伊勢原の医学部付属病院から船医として参加された赤坂医師の他に、東海大学大磯病院から生本看護婦が加わっておられました。
 実はこの生本さんもかなりシケと船の揺れに苦しめられ、食事が食べられなかったり、しばしばもどされたり、
 そして気持ちの悪さのためずっと居室のベッドに横になられた状態が続くというご苦労をされていました。

 しかしいざ学生の具合が悪いとか発熱だとかがあると、どんなに気持ちが悪くても、またベッドに倒れている状態でも、さっと立ち上がって看護の仕事に向かわれました。
 学生や団役員の中には船酔いで食事がずっと取れず、点滴を受ける者が出ましたが、
 そんな「患者」に付き添われて昼でも夜中でも数時間おきの点滴の交換作業などに携わっておられました。
 これは看護師なのだから当然の仕事だ、と言ってしまえばそれまでなのかも知れませんが、
 私は個人的には「プロ」というのはこういうことを言うのだな、とつくづく感心した次第です。

   

 さて私のこの文章が載るのは『異文化交流』という雑誌です。
 そこで以下、異文化交流/異文化との出会いに関する三つの大きな視点からこの研修航海の話を進めてゆきたいと思います。
 まず最初の「異文化との出会い」は、もちろんこの研修航海の一番大きな眼目でもある「南太平洋の島々の文化との出会い」です。
 参加学生たちは行く先々の寄港地の人々との出会い、社会や気候風土との出会いを通して、日頃慣れ親しんでいる自分たちの文化とは異なる生活習慣、
 考え方、文化、文明が存在することに改めて気づかされます。

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 最初の寄港地はミクロネシア連邦のポンペイです。
 港から数キロのところにあるコロニアという中心街は、「街」というより「村」といった感じで、一本道のメインストリートの両側に、
 何だか簡素なショップがぱらぱらと百メートルほど続いているだけでした。住民たちはそんな街路を暑い日射しを浴びながら平和そうにゆっくりと歩いています。
 ミクロネシア短期大学を訪問したときにお会いした、海外青年協力隊の烏山房江さんという日本人の女性の方によれば、
 この島では、仕事につく機会は大学を出ていても何ら関係なく、ほとんどがコネで、親が政府機関に勤めていると子供もほとんど自動的に政府機関に勤められるとか。
 またポンペイの人々は、年中暑い気候がずっと続くためか、明日、三日後、来週、来月、来年、などといった未来のことは全然考えない。寿命は五十年くらいである。
 使用する言語には抽象的な言葉はなく、簡単な言葉を並べるだけ。金を持っている人間にはどんどんたかるが、同時に貧乏な人間にはどんどんごちそうする。
 助け合い精神が旺盛で、例えば高校などの試験でもカンニングが横行し、当事者たちは助け合って何が悪いのか、といった感じである。
 こんな暑い気候なので、あまり病気がなく、特に「かぜ」という言葉が存在しない。虫歯は何でもすぐに抜く。
 また犬を食べる。犬が交通事故などで轢かれると、人間たちが集まってきて、肉を持って帰って食べる。猫は食わない…………などなど、いろいろな話をおうかがいしました。
 現地の人々は、われわれ日本人とはずいぶん違う文化・風土の中で生きているようです。

 

 次の寄港地ツバルのフナフチは、幅数十メートルの細長い環礁が何キロにもわたって続くだけ、という国土なのですが、
 そこでの一般の庶民の生活は、電気もガスも水道もないもののようです。われわれから見ると粗末な堀建て小屋とかバラックのように見える家が点々と続き、
 その中の寝台や外の椅子の上で実にのんびりと昼寝をしています。

 いったい彼らの生活はどうなっているのだろう、仕事はどんなことをしているのだろう、収入はどこから得て、それを何に使っているのだろう、
 いやそもそも収入なんてあるのだろうか…………。いろいろな疑問が頭に浮かびます。
 そんなこの島の生活を「貧しくて不幸だ」と言えるでしょうか。確かに文明化の恩恵は、この島には多くありません。

 この島の生活と、高度に文明化された日本の東京のそれを単純に比較することには無理があるのですが、
 そういう日本の都市部のような「文明」をまったく知らないということは、
 われわれが感じるような「不幸の意識」をそもそも持つ理由がない、ということなのかも知れません。
 この島に生まれ、この島の生活しか知らないのなら、文明から見た「不幸の意識」の生じる余地がありません。
 たとえ水道がなくても電気がなくても、それはそれで愉快に生きていけるのでしょう。
 この島の生活を「不幸だ」というのは、文明の傲慢以外の何ものでもないということなのでしょう。


 しかし同時に、翻ってこの島の生活を「豊かで幸福だ」と手放しで単純に言い切れるものなのかどうかということも思いました。
 この場合の「豊か」というのは、もちろん心の持ちようのことであって、自然に囲まれ文明の悪に染まっていない純粋な人間性のことです。
 よく文明批判では、「文明=悪」とされ、自然の状態が美しく賛美される傾向にあります。ルソーなどその典型です。
 ところが「文明=悪」という図式が単純すぎるように、「自然=善」という図式も単純すぎるのではないか。
 確かに通勤ラッシュもなければ交通事故もない、光化学スモッグもないしタイムレコーダーもありません(おそらく)。
 見渡す限りの海と空と風と太陽の光。それしか知らずに生きているということは、何とすばらしいことでしょう。

 しかし良い意味でも悪い意味でも、それしか知らないということなのです。
 それしか知らないということは、いいことなのでしょうか、それとも悪いことなのでしょうか。あるいはいいとか悪いとかの問題ではないのでしょうか………。
 私はこのようなことを、暑い日射しの降り注ぐフナフチの環礁をトボトボ歩きながら考えました。このような疑問にはっきりとした解答も得られませんでした。
 とにかく、少なくとも日本の都市のような文明をいったん知ってしまっている私には、文明に毒されていないこの島にずっと住んでみたい、
 というふうには悲しいかな考えられなかったことだけは確かなことです。
 学生の中にはこの島に一生住みたいと思った者もひょっとしたらいるかも知れませんが、私には無理だと率直に思いました。
 私の心は「悪しき文明」にすっかり毒されてしまっているのだということを感じました。

 


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 この航海で経験した第二の「異文化との出会い」は、「留学生」という異文化との出会いでした。
 今度の研修航海には、アジアやヨーロッパから十四名の留学生が参加しています。彼ら・彼女らは、東海大学で日本語を勉強しています。
 中には日本の若い学生よりも立派な日本語を話したり書いたりするような留学生もいるほどです。
 だから、こと言葉に関しては、あまり彼らのことを外国人だと意識することはありません。
 ともすると日本語が上手に話せるゆえに、彼ら・彼女らもわれわれ日本人と同じように考えて行動するだろう、などとつい考えてしまいがちです。
 しかし留学生の考え方や行動は、やはり当然のことですが日本人のそれとは大きく異なります。

 狭い船内での四十五日間という航海の中では、異文化としての彼ら・彼女らを意識することもしばしばありました。

 例えば、船では毎朝六時半に後部甲板に全員集まり、点呼をしてラジオ体操を行います。
 この全員でのラジオ体操というのは、外国人にとっては日本人の集団行動主義のシンボルのようなものです。
 日本人学生は今の若い世代であってもラジオ体操をよく知っていて、みんな一斉にそろえてちゃんとやります。
 留学生たちは、ラジオ体操なるものを初めて経験することもあって、とにかくバラバラです。
 いや後ろから見ていると、バラバラどころではなくて、まったくやる気がなく見えます。
 本人たちは何とかやろうと思っているのかも知れませんが、こちらにはやる気がなさそうに見えます。

 そして彼ら・彼女ら留学生たちが、体操にはげむ日本人学生の様子を見る時の、奇妙なものをみるような視線と表情。
 そんな留学生たちの様子を今度は私などが見て「彼らには日本人のラジオ体操をする姿がどんな風に見えているんだろうか」などと意識し始めると、
 何だか、日本人である私にも、目の前で一斉に音楽に合わせてラジオ体操している百名近くの日本人学生の様子が、異様な光景に見えてくるではありませんか。
 これは不思議な経験でした。
 今まで当たり前だと思っていた自分の文化が、まるで異文化のように見えてくるのです。

  


 また次のようなこともありました。
 船内では時々「赤道祭」とか「スポーツ大会」とか「船上パーティー」といった行事が行われます。こうした行事には学生・団役員全員で取り組むことになります。
 学生たちは全部で14の班に分かれており、それぞれの班が決められた役割分担を果たして、その行事を成功させようということになります。
 ところが航海の最初の頃、ある班のスウェーデンから来た男の留学生が「僕はこの行事には興味がありません。だから僕は参加しません」と堂々と言い放ったのです。
 日本社会では、この種の行事はみんな全員で取り組むのが常識です。
 例えば小学校や中学校で「僕は興味がないから参加しない」といって運動会や文化祭を休んで一人図書館で本を読む、などということは、およそ考えられないことです。
 全員参加は当たり前のことです。ところがこの留学生は、他人がどうかは知らないが、自分にはとても興味が持てないから加わらない、とただ一人宣言したのです。

 困ったのは同じ班の学生たちです。日本ではこういうことはみんな一緒にやるものなのだから、と説得を重ね、ようやく参加させることに成功しました。
 そのスウェーデンの学生が、本当に納得して参加することにしたのかどうかは、今でもわかりません。
 「日本ではそういうものだから」というのは、よく考えるとあまり説得力がある論理だとは思えませんが、しかしそう言うしかないことも事実です。
 日本人の学生たちは、ヨーロッパ人の個人意識、主体中心の考え方や行動というものにあらためて驚かされたことと思います。
 そして振り返って自分たちの文化の特殊性にも、ひょっとした気づかされたのではないでしょうか。

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 「異文化との出会い」ということには直接関わりがないことですが、私も船の生活で考えさせられたことがありました。
 それは船内生活の規律と秩序の問題です。
 さきほど朝のラジオ体操のことを紹介しました。朝の点呼と体操だけではなく、船の中にはさまざまな制限とルールがあります。
 消灯時間の夜の十時を過ぎたらデッキに出てはいけないとか、シャワーは二日に一度、洗濯は何日かに一度しか許されないとか、立ち入り禁止区域があちこちにあるとか、
 飲酒や喫煙の規則、食事当番・掃除当番のルール、その他とても書ききれないほどの規則とルールが決められています。
 もちろん何かあるたびに集合時間は厳守、必ずいちいちすべての班の点呼をとります。
 特に朝の6時半の点呼とラジオ体操は重要で、これに遅れたら連帯責任ということで、その班の班員全員に腕立て伏せを課したことさえありました。
 船内生活では厳しい規律と秩序が要求されたのです。


 ところで私の専門は哲学・思想で、とりわけ現代フランス思想家ミシェル・フーコーの思想を研究しています。
 周知のように、フーコーの思想は一言で言うと「権力批判」ということに尽きます。
 権力がわれわれ人間に課す規律と秩序のシステムの内実を暴き出し、これを批判してゆこうとするものなのです。
 フーコーの思想を研究し、権力の持つ規律と秩序を志向する性格を批判する彼の思想に共鳴する、ほかでもないその私が、
 学生たちに45日間、極めて厳格な規律と秩序を課す側に回るということになったのです。
 常に点呼を実施し、率先して遅れや怠慢を叱咤し、規則の違反者には罰則を与える。これが毎日の日常的な自分の仕事になりました。


 私は実は毎朝学生たちとラジオ体操をしながら、いつもこのことに思いを巡らしていました。しかし45日間の航海では、1件の事故も許されません。
 1人でも学生が海に落ちたら一大事です。
 朝の点呼の時に1人でも学生がいなくて、夜の間に海に落ちていたなどということが判明したら、もうそれでこの航海は大失敗です。
 それこそ団役員は全員辞表ものです。そこまでいかなくとも、例えば1人でも集合時間に遅れたら、全体のスケジュールが狂い、船の運航に支障をきたしてしまいます。
 規則やルールの条件を緩めれば緩めるほど、船内生活の緊張は少なくなり、危険に対する意識も低下してゆきます。
 緊張が低下するほど、逆に事故が起こる可能性が高まってゆきます。
 そして気の緩みが思いがけないアクシデントを生むことになります。あるいは1人の勝手な行動が全員の生命を危険にさらすことだってあり得ます。
 太平洋のまっただ中を進む船上の危機管理には、規律と秩序がどうしても必要です。


 私は毎朝毎夕、規律と秩序を課す側に回りながら、「これは船という特別な空間の中の特殊な状況なのだ、航海という特別なプロジェクトなのだ」と心の中で繰り返していました。
 そしてある種の葛藤を感じ続けました。そこまでする必要があるのだろうか、と思ったこともしばしばでした。
 しかしながら、よく考えると、何らかの規律や秩序が必要なのは、何も船の上だけのことに限ったことではなく、思えば社会全体にも等しく言えることなのです。
 フーコーは権力や規律や秩序を批判しましたが、しかしだからといって全くの無秩序と混乱と争乱状態が望ましいと考えたわけでもありません。
 規律と秩序を必要とせずに一つの社会が安定することに越したことはないのですが、残念ながらそれは無理なようです。
 だとすれば、規律や秩序という必要悪を、どれほど少なくて済むような形で認めるか、言いかえれば制度とか規則とかルールとか秩序とかいったものを導入する際に、
 人間の自由の疎外をいかに少なくすることが可能か、ということなのだと思いました。

  

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 最後の3番目の「異文化との出会い」は、それは「日本の都市文明」とのあらためての出会い、ということでした。
 3月31日早朝、望星丸は清水港に帰港しました。
 帰りの小笠原付近のシケを一晩かけて乗り越えた後、目が覚めて目の前に駿河湾と富士山が見えたときには、言いようのない感激に襲われました。
 松前総長はじめ来賓の方々に迎えられての帰港式のあと、研修団は解散し、望星丸も清水港のドックへ戻って行きました。
 私は清水港から大学の用意してくれたバスで静岡駅まで行き、そこから新幹線で東京の自宅へと帰りました。


 もちろん肉体的な疲労もあったのですが、それまで45日もの間、海ばかり(あるいは寄港してものんびりした島々の風景ばかり)見てきたところに、
 いきなり日本の都市部の光景が目に入ってきて、やはり大変に疲れました。見渡す限りの水平線から、見渡す限りの人工物という世界へ戻ってきたのです。
 バスの中から、新幹線の車窓から、これでもかと無理矢理に目の中に突き刺さってくる人工物(そして文明)の洪水。
 狭い国土の中にすし詰め状態でひしめくビル、マンション、家、さまざまな四角い建物、工場、道路、あふれる自動車、トラック、信号、電柱電線…………。
 谷の奥と言わず山の上と言わず、ものすごい数の家がびっしりと立ち並んでいます。
 その間を時速200キロのスピードで自分の乗った新幹線が突っ走って行きます。

 なんなんだこれは、ここはいったいなんというところだ、というのが正直な気持ちでした。

 こうした「文明」の姿は、目だけでなく、目を通して精神にまで突き刺さってきます。それらを見るのには、非常に強い精神的な力を必要としました。
 私はもともと都市というものが好きな人間だと自分でも思っていたのですが、このときばかりは都市文明に嫌悪感に近いものすら感じました。
 そして「文明は疲れるものだ」ということをあらためて実感しました。
 あれこれ言いながらも、海と空と自然に満ちた航海にすっかり影響された自分を発見したのでした(これを書いている今は、もうすっかり元に戻ってしまい、
 都市文明の中でこれまで通り普通に生活しています。何となく寂しい気持ちがします)。


 この航海で、学生たちも団役員も、じつにさまざまなことを経験し、学び、考えたことと思います。私個人にとっても大変貴重な体験でした。
 このような機会を与えていただいた大学に、そして航海中お世話になった望星丸乗組員、また現地でお会いした多くの方々に、心より感謝申し上げる次第です。

※この航海記は、「異文化交流 第2号 特集:日本の近代化と留学」(東海大学外国語教育センター・異文化交流会編、2000年10月発行)に掲載されたものである。

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