モノを所有するということについて(2014.05)



 2012年3月に、消化器の腫瘍とその摘出のための入院・大手術いう経験をしました(→「研究室日記 2012年3月~」)。
 その際、医者からは「へたしたらあと2~3年でした」と言われました。

 それ以来、人生観や考え方が自分でもかなり変わりました。

 なんだかあまり物事にも執着しなくなりました。
 もともと出世など社会の階段を上へ上へと登ることにはあまり執着がないたちでしたが、ますますそれが強くなった感じです。


 あと、モノを所有するということに対する執着が薄くなりました。
 だって、いろんなものを所有して大切にため込んだり、しまい込んだりしていても、もしもあと2~3年で死んでいたとしたら、
 それらは全部売り払われたりゴミと化して捨てられたりしていたわけです。

 「これは価値があるものだ」というものも、それはあくまでもワタシ個人の価値観に過ぎず、
他人には何の価値もないということが多い。
 一番分かりやすい例は、例えば
蔵書ですね。
 自宅と研究室にある蔵書類は、ワタシが死んだら恐らく散逸するか廃棄されるだけです。
 大学図書館も引き取ってはくれません。
 「これらの本は貴重なものだ」というのは、あくまでもワタシ個人の世界の中の話であって、
 同じ研究者であっても、
専門が少し違えばその価値観は共有されません。これは実際にホントの話です。

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 なので、今せっせと「
自炊」しています。
 もちろん「紙」という実体的なもので所有することに価値のあるものもあるでしょう。

 例えば「これは芥川龍之介の初版本だ」とか「これは15世紀の写本だ」とか。
 でもワタシが持っているものはせいぜい古くても20世紀止まりです。
 思想関係の文献なんて新しいものばかりだし、南仏の歴史関係のものがかなり集まっていますが、それも中身の情報が大切なのであって、
 「紙」として持つことそれ自体に貴重な価値があるものではありません。
 「どうせあと2~3年だった」のだ思うと、あまりこだわらなくなります。

 とりあえず南仏の歴史と文化や中世ロマネスク関連のものを除いて、
 あとのものはバッサリ裁断して(最近はいい裁断機があります)、ガンガンとスキャンします(これまた最近は便利な自炊用スキャナがあります)。
 書架がどんどんきれいにスッキリしていきます。
 これは実に気持ちがいいですね。

 少し前に『捨てる技術』という本が話題になりましたが、まさにそれを実践しているわけです。

 本以外でも、昔から自宅や研究室にためこんだいろいろなものをガンガン捨てるようになりました。
 紙媒体のもので必要なものはデジタル化して、それ以外のものは捨てます。
「いつか使うだろう」と思って持っていたものにもさほど未練はなくなりました。
 
 クルマさえ、今は個人リースです。車体は自分のものではありません。

 繰り返しますが、
しょせん「どうせあと2~3年だった」のだし……。
 
 
研究室もどんどん「自炊」作業でスッキリしていきます(ただし今のところは私費で購入したもののみ)。

 自宅の部屋からも、本当にしょーもないもので後生大事にしまってあったものかいっぱい出てきます。
 古いものだと、高校生の時の学校のノートとか、何年も前に行った旅行先のパンフレットとか、MDとかPDとか、さまざまなガラクタ類とか……。
 中には子どもの頃のオモチャとかプラモデルとかまでありました(笑)。
 片っ端から捨ててしまいました。
 
 そのうち
捨てること自体が自己目的化してしまい、不思議なことにそれに快感すら感じるようになってきます。
 どうせ「
死んだらみんなゴミ」です。
 死なないまでも、もっと歳を取って、仮に老人介護施設に入るなんてことにでもなったら、きっとそこには必要最小限のものしか持って行けません。
 余計なモノは、結局全部捨てることになります。

 定年まであと11年。あっという間の11年だと思います(もちろんそれまで生きれたらの話ですが)。
 定年の時には、研究室はすべて空けて出なければなりません。
 今から11年後の定年の時のことを着々と準備です。


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